168 岡山県 吉備の中山 吉備津神社の矢置岩

【Introduction of Iwakura168】Visit・Photo:2016.8.13/Write:2025.4.13


 

□分類:信仰設備(広義のイワクラ)

□信仰状況:信仰の形跡なし。

□岩石の形状:巨岩単体

□備考:神事において矢を置く道具


 □住所:岡山県岡山市北区吉備津

□緯度経度:34°40'17.45"N 133°51'03.37"E

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吉備津神社(備中)の北側の随身門の入り口に矢置岩があります。矢といえば、温羅(うら)伝説において、吉備津彦と温羅が弓矢合戦を行い、吉備津彦が二本の矢を同時に射たことで温羅に致命傷を与えることを思い出します。二本の矢を同時に射るというアイデアがこの伝説の重要なキーとなっていることと、この矢置岩との関連を考えたくなります。

桃太郎伝説の元となったといわれている一般的な温羅伝説は以下のようなものです。

百済の王子が吉備国に飛んできて、新山に居城を構え(鬼ノ城)、岩屋山に楯を構えた。名を温羅(うら)といい吉備冠者とも呼ばれた。都に送る貢船や、婦女子を掠奪したので、朝廷は大いにこれを憂いて、孝霊天皇の息子のイサセリヒコ命が派遣された。命は吉備の中山に陣を布き、片岡山に石楯を築き立てた(楯築遺跡)。命が射た矢は、鬼神の矢と空中で噛み合って海中に落ちた(矢喰宮)。命が二矢を同時に射たところ、一矢は噛み合って落ちたが、残りの一矢は温羅の左眼に当たった。血潮は混々と流れた(血吸川)。温羅は雉に変化して山中に隠れたが、命は鷹となって追いかけた。温羅は鯉に変化して血吸川に逃げたが、命は鵜となってこれを噛み揚げた(鯉喰宮)。温羅は降参して「吉備冠者」の名を命に献上した。それより命は大吉備津彦と呼ばれるようになった。命は温羅の頭を串に指してさらしたが(首村)、この首が唸り続けた。命は部下の犬飼武に命じて犬に食わしたが、髑髏になってもやまなかった。その首を釜殿の竈の下八尺に埋めたが、なお十三年の間、うなりは止まらなかった。ある日、命の夢に温羅の霊が現われて、「吾が妻、阿曽郷の祝の娘阿曽媛をして釜殿の神饌を炊かしめよ、幸あれば裕かに鳴り、禍あれば荒らかに鳴ろう。吾は命の一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げた(釜鳴神事)。

この温羅伝説は、鎌倉時代に書かれた『鬼城縁起写(鎌倉時代)』が元となり、時代が下るにつれて装飾されていったものです。「剛伽夜叉」や「冠者」と書かれていた鬼神に「温羅」という名前が付くのは江戸時代です。

 

さて、1月3日に、この矢置石の場所で矢立神事が行われています。本宮に参拝した後に、艮御崎から初めて外陣の四御崎を巡拝し、矢置岩前に集合します。矢置岩に弓矢を置いて祈祷したあとに、射手が4方向に向かって矢を放ち、四方の災禍を祓います。

この神事は1960年に復活させたもので、長らく途絶えていました。本来の矢祭については、『吉備津宮箭祭次第写(1805)』に次のように書かれています。この資料は1525年の記録を1805年に写したものなので室町時代の記録です。

「一、前日から箭置石之近辺、御蔵箭神社御辺、桜箭神社御辺掃除、一、右行事役 持二筋之箭、箭置石のもとに、御本殿之方ニ向立て拝し、其後箭を石の上におく、一、左行事兼大行事役、取其箭て、神主殿之右のわきに立て、装束の袖にて箭を三度根の方より羽の方へぬくひて、神主殿へわたす、一、神主殿是を受取、天下泰平国家安寧産子安全五穀成就之旨を申、三度之御拝あり、其後三人共四方拝ありて。御殿へ上ル、大禰宜吉上所・祝詞役[両三]人、御前宮に御戸張して相待、一、箭を艮御前に備て祓を申す、其後五人共御蔵矢へ箭を持参ル、社司御蔵矢の御戸を開て是を入、七人れちに立て祓を申す、御蔵矢に納置こと三日也、其後右之箭を桜箭神社に納奉る、先神主殿、次大禰宜・大行事・右行事・祝詞・吉上所五人、末之衆壱人、又箭を持て本社に参り、祝詞申て、其後桜箭へ参ル。列之次第、先末衆壱人すきを持、二番神主殿・大禰宜・大行事・右行事四人左右れちに立、三番吉上所箭を持、桜箭の御まへに四人左右わかれ、れち立、箭を神主殿へ渡す、末衆すきにてれちに立候真中をほる、大行事右之箭を受取、掘候中に入る、末衆土かけ是を埋む、五番祝詞出て、天下泰平の旨祝を申、退り帰る、若願主有て、矢置石ニ矢を置時者、社人何れにても取て、御前宮ニ奉り、祓を申、御蔵矢神ニ納、三日のゝち、桜箭神社の御社に納むる也、右大永五年正月三日の書付也、但し晴天をゑらぬと云々 散位賀陽長職」

二本の矢が用いられているのは、温羅伝説が二本の矢を同時に射たことに因んだものだと考えられます。現在の神事と大きく異なっているのは、矢を射るのではなく、桜箭神社に埋めるところです。なぜ矢を埋めるのかについては、『一品吉備津宮社記(1871)』に「櫻谷神社(小祠) 在於吉備中山半腹 瀬織津姫命天照大神荒魂也 世将事則自宮之内素矢自然出 」と書かれています。世の中に大事が起こったときに自然に矢が出てくるという事です。ここの櫻谷神社は桜箭神社の事ですが、その場所については、『備中吉備津宮境内絵図(江戸時代)』に描かれている矢納宮石と考えられます。この矢納宮石は、2つの丸で表現されていることから2つの岩石であったことがわかります。この矢納宮石の所在については情報を持っていません。小さな祠はあったのでしょうが、矢を埋める神事の対象は岩石であったと考えられます。また、ここに瀬織津姫が絡んできている理由はわかりません。

昔は箭置石と記述されていた矢置岩の方ですが、矢を置く場所であり、祭祀の対象ではありません。信仰に使用された道具としての岩石ですので、信仰設備(広義のイワクラ)に分類しました。

 

 

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