115 兵庫県 保久良神社岩石群の三交岩


【Introduction of Iwakura 115】


分類:磐座(狭義の磐座)

□信仰状況:神社に祭祀されている

□岩石の形状:巨岩群

□備考:この三交岩は自然露出と考えられるが、小さな岩石は人工的に配置されている。


 □住所:兵庫県神戸市東灘区本山町

□緯度経度:34°44'08.13"N 135°16'42.89"E

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保久良神社には、神功皇后が三韓征伐の帰途に保久良に宝物を収めたという話や、日本武命が熊襲遠征の帰途に航路がわからなくなったが保久良神社の灯火が見えて難波へ帰りつけたという話が伝わっています。社伝によると、摂津国菟原郡の統治を任された椎根津彦命が、青亀をほくら山の麓の海岸に着けられ(この場所が現在の青木)、山頂を祭祀する場として決められた。そして、東から昇る日輪を遥拝し、大岩を並べ「磐座」とされ、「祖先神(須佐之男命・大歳御祖命・大国主命)」を祭祀して「農業生産・諸業繁栄・村里安全」を一族の人々と共に祈願されたことが保久良神社の創建となっています。

『日本書紀』には、椎根津彦(しいねつひこ)命について次のように書かれています。「其の年の冬十月の丁巳の朔辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門に至ります。時に、一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、招せて、因りて問ひて曰はく、「汝は誰そ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名をば珍彦と曰す。曲浦に釣魚す。天神の子来でますと聞りて、故に即ち迎へ奉る」とまうす。又問ひて曰はく、「汝能く我が為に導つかまつらむや」とのたまふ。対えて曰さく、「導きたてまつらむ」とまうす。天皇、勅をもて漁人に椎槁が末を授して、執へしめて、皇船に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦とす。此即ち倭直部が始祖なり。」。

大阪に攻め入る途中の神武天皇を案内して椎根津彦という名を賜る話です。その後、椎根津彦は神武天皇に付き従い、天香具山の土を持ち帰り、これをもって神武天皇は戦勝を祈願して勝利します。椎根津彦はその功により、倭国造の要職に就きますので、倭国造つまり大倭氏の祖神逸話にもなっています。

神社には、「灘の一つ火」と呼ばれている石灯篭がありますが、古代から絶やすことなく灯がともされて灯台の役目をしていたもので、沖を通る船の安全を守ってきました。まさに、神武天皇の海路の案内をした椎根津彦命を祀っている神社に相応しいものです。

保久良神社には、数多くの岩石が存在していますが、社伝にも「大岩を並べ」と書かれているように、岩石の大部分は運び込まれたものです。つまり、保久良神社は、人工的に造られた磐座祭祀場に後から建てられた神社となりますので、その本質は岩石祭祀にあるといえるでしょう。

いくつかの名前が付けられた岩石がありますが、その一つの「三交岩(さんごいわ)」は社殿の東にある巨岩群です。昔は「三五岩」の字が使われていました。緑泥片岩の柱状の巨岩数個が斜面に寄りかかっています。そのうち最大の巨岩の下は岩陰となっていますが、この場所から石鏃が多数出土しており、祭祀場の一つであったと考えられます。

また、筆者は2017年に、天叢雲剣の磐座と弁天岩を結んだ線を伸ばすとこの保久良神社に到達することを発見して、拙著「イワクラ学中級編(2021)」にも収録しました。この保久良神社の位置が重要な意味を持っていると考えています。 

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