【Introduction of Iwakura157】Visit:2014.10.25/ Photo:2014.10.25/ Original:2014.2.16/ Write:2025.2.11
□分類:天文利用のための岩石遺構(広義のイワクラ)
□信仰状況:祭祀されていない
□岩石の形状:巨岩組
□備考:人工物、岩石遺構と太陽の関係の分類 スリットB-3型、周辺に岩石群
□住所:愛媛県松山市泊町
□緯度経度:33°53'53.33"N 132°40'01.90"E
(googleに入力すれば場所が表示されます)
愛媛県松山市の北端に白石の鼻という岬があり、海の中に三つ石と呼ばれる巨岩組があります。2008年に篠澤邦彦氏によって、この三つ石に春分・秋分の太陽が入る現象が発見されました【Introduction of Iwakura 4】。その後、篠澤邦彦氏は白石の鼻巨石群調査委員会を設立して、白石の鼻周辺の岩石の調査を継続されています。
篠澤氏は、三つ石の対岸にある亀石には冬至の日の太陽が入り、海上に並んだ3個の石が形成する隙間に夏至の太陽が入ることなどを次々と発見されました【Introduction of Iwakura 156】。そして、2014年頃には、かさね石に雨水と霜降の日の太陽が入ることを発見されました。
篠澤氏に誘われて2014年10月25日に松山に向いました。かさね石は、白石の鼻の対岸の興居(ごご)島の鷲ヶ巣の海の中にある巨岩組です。三つ石や亀石と同じように複雑に巨岩が組み合わされています。膝まで海に浸かってかさね石のスリットに太陽が入る光景を見ました。細いスリットに絞られたオレンジの太陽光は神々しく、感動しました。
かさね石のスリットの厚みは大きいので、『岩石遺構と太陽の関係の分類(平津豊、J-AASJ、2022-1 vol.4、2023)』のスリットB-3型に分類されます。観察ポイントを示す岩も存在するのでB-1型と捉えることもできます。このあたりは三つ石と同じです。
ここで著者が疑問に思ったのは、1年で最も日が短い冬至、最も日が長い夏至、それらの中間で、夜と昼の時間が同じ春分と秋分を観測する装置が岩石遺構に仕組まれている意味はよくわかりますが、秋分と冬至の中間が、なぜ霜降(10月24日)なのでしょうか。24節季で考えると秋分と冬至の中間は、立冬(11月8日)です。夏至から冬至までは約180日、春分から冬至まではその半分の約90日、立冬から冬至まではその半分の約45日です。つまり、1年を均等に8等分すると、夏至→(45日間)→立秋→(45日間)→秋分→(45日間)→立冬→(45日間)→冬至(45日間)→立春→(45日間)→春分→(45日間)→立夏→(45日間)→夏至となります。
これについて、岐阜県の金山巨石群を研究されている小林由来氏や徳田紫穂氏は明確な答えを用意してくれていました。「古代人は太陽の高度で1年を認識していた」という答えです。
白石の鼻巨石群の場所で最も太陽が低くなる冬至の太陽高度は32.1度、太陽が最も高くなる夏至の太陽高度は79.0度です。この角度4等分すると、32.1度、44.0度、55.6度、67.3度、79.0度となります。この44.0度に近い24節季が雨水・霜降、67.3度に近い24節季が穀雨・処暑となり、太陽高度で等分すると、夏至→(60日間)→処暑→(30日間)→秋分→(30日間)→霜降→(60日間)→冬至(60日間)→雨水→(30日間)→春分→(30日間)→穀雨→(60日間)→夏至となります。
金山巨石群では、冬至をはさんだ120日間や、夏至をはさんだ120日を観察できるようになっていますが、これが霜降から雨水の間、穀雨から処暑の間にあたるのです。そして、白石の鼻巨石群でも雨水・霜降を示すかさね石が発見されたことから、穀雨・処暑を示すもう一つの巨岩組が存在することが強く示唆されていますので、発見が待たれます。
また、金山巨石群と450キロメートルも離れた白石の鼻巨石群との間に共通性があるということは、この日本の縄文時代に広範囲にわたって巨石文明があったことを意味しています。
一方で、昔の鷲ヶ巣は平地が海の方にひろがっていて、干潮時には釣島まで歩いて渡れた。「かさね」も田の下に埋まっていて、農作業をすると鋤がこの岩の頂に当たった。津波で田が押し流されたあと「かさね」がその姿をあらわしたという伝説があります。この伝説を信じると、かさね石は田の下に埋まっていた岩石ということになるので、人の手が加わっているはずがないとして否定する人がいます。
この鷲ヶ巣の津波伝説ですが、興居島から西に14キロメートル離れた由利島にも津波の伝説が残っています。千軒もの家が立ち並ぶ島でしたが、大地震が起こり津波に流されて小さな二つの島になり、逃げのびた島民は三津に住みついたという伝説です。「ゆり」こんだ島から由利島と呼ばれるようになったといいます。松山市古三津の儀光寺の由緒には、もともと由利島にあった儀光寺が、弘安年間(1278-1287)の地震により島を離れ,古三津に再建したとありますので、この地震は安土桃山時代に起こったものと考えられます。
さて、興居島の鷲ヶ巣にはカモセ島がありますが、由利島にも鷲ヶ巣とカモセ島があったといいます。そうすると、由利島の津波から逃げ延びた人々が興居島に住みついて、ふるさとの由利島と同じ地名を付けたとも考えられます。鷲ヶ巣の津波伝説は、興居島の伝説ではなく由利島の伝説だったのかもしれません。もしそうであるならば由利島にもかさね石が存在する可能性がでてきます。
なお、興居島のかさね石が安土桃山時代の津波によって出現したとしても、それは再出現であり、かさね石の建造を縄文時代以前と推定しているので問題はありません。
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