062 兵庫県 破磐神社のわれ岩

【Introduction of Iwakura 62】


□分類:磐座(狭義の磐座)

□信仰状況:神社に祭祀されている

□岩石の形状:巨岩群

□備考:元々1つであった巨岩が3つに割れている


□住所: 兵庫県姫路市西脇

□緯度経度:34°51'33.20"N 134°35'21.31"E

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兵庫県姫路市西脇に鎮座する破磐神社は、奉点燈祭という勇壮な火祭りで有名です。

この神社は戦後荒廃し、火祭りも中断されていましたが、1980年に父親の跡を継いで神社に戻った中田千秋宮司によって復興され、全国から多くの参拝者を集めるようになりました。1987年には神社本庁から「モデル神社」として表彰されています。

破磐神社の御神体である「われ岩」は、破磐神社から南西に1.8キロメートル離れた場所にあります。この「われ岩」の場所で行われていた祭祀が、江戸時代に現在の破磐神社の地に遷ったものと伝わります。筆者も1990年頃に、噂を聞いて「われ岩」を探したことがありますが見つかりませんでした。

その荒れ果てて忘れ去られていた「われ岩」の整備は1992年に始まりました。山中に隠れていた「われ岩」を氏子総代会・破磐神社伝統文化保存会の方達が、ユンボを操作して周りの竹林や雑木林を掘り返して整備を行ないました。今では、破磐神社と一緒にこの「われ岩」をお参りする人も増えています。

その「われ岩」は、5メートル以上の高さがある逆三角形をした大岩で、大きく割れています。またその岩石の色は独特の白緑色をしていて清楚で、古代に特別な岩石として崇められたことは想像に難くありません。播磨を代表する磐座だと思います。

「われ岩」に関して、次のような社伝が残っています。「往昔息長帯日売命が三韓を討征し凱旋された時、忍熊王の難があったので御船を妻鹿の湊に寄せられ三野の荘麻生山で天神地祇に朝敵退治を祈られ麻積連祖笠志直命に弦を求めるように仰せられたところ大巳貴命の神託により一夜の中に麻生その麻を弦として三本の矢を試射された、第一の矢は印南郡的形に虚矢となって落ち、第二の矢は飾磨郡安室辻井に、第三の矢は太市郷西脇山中の大磐石に中って磐を三つに破った。神功皇后これを吉兆して、この地に矢の根を祭られ後に仲哀天皇、応神天皇、御ニ柱を崇め奉り破磐三神に称し奉った。」

『播磨鑑』にはこれよりさらに詳しく書かれています。筆者がこの『播磨鑑』から導いた神功皇后の射矢の話の原形は以下のようなものです。

神功皇后は、三韓征伐に向うときに播磨に立ち寄り、戦勝を祈って矢を射た。/矢を射た麻生山は、姫路市奥山の小富士。/初矢は、姫路市的形町の的形に落ちた。的の楯岩は、木庭神社のイワクラ。/一矢は、姫路市新在家の矢落村に落ち、矢の祭祀は姫路市辻井の行矢社射楯兵主神社に移った。/二矢は、姫路市青山の行箭社に落ちた。行箭社の場所は稲岡神社付近。/三矢は、姫路市太市のわれ岩を割った。/姫路市手柄の生矢神社は、これらの神功皇后の射矢の話にあやかって12世紀以降に祀られた。/われ岩の祭祀が、宮が谷から現在の破磐神社の地へ移った。

一方、『播磨国風土記』は、神功皇后の逸話で彩られていますが、この射矢の話は記述されていません。したがって、アニミズムとして「われ岩」という岩石を古代から祭祀していたところに、播磨における神功皇后の人気、さらに播磨で祭祀されていた射楯神が加わって、9世紀以降に神功皇后の射矢の話が形成されたと考えられます。 

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